ミラノで喝采を浴びる唯一の日本人デザイナー「ファッションは伝統と現代、異文化と人々を繋げる手段」 --ATSUSHI NAKASHIMAデザイナー中島篤1/2【INTERVIEW】

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政治の混乱、戦争の影、過激化するテロや暴力。平和と安全の維持を脅威すようなニュースに囲まれ、不安を拭うことができないこんな時代に、ファッションがどのような役割を果たすべきか。

業界人の多くが胸の内に抱える疑問に対して、デザイナーの中島篤は17SSのコレクションノートにこのように記した。「ファッションは私にとって伝統と現代を結合させる手段。それは異なる文化と人々を繋げるもの」。

モダンでありながらクラシカルな空気感を併せ持ち、和の繊細さとヨーロッパの大胆さをミックスさせ、比類なきアイデアで勝負するATSUSHI NAKASHIMA。

『DHL Exported』プロジェクトを日本人として初受賞し、16-17AWでミラノコレクションデビューを果たした。2回目となった17SSのショーは、16世紀頃に建てられた王宮内をステージに、日本とイタリアの国交150周年を祝す、サプライズに溢れた演出で大きな喝采を浴びた。

王宮として生まれた後にミラノ政府の拠点となり、現在は展示スペースや博物館として使用されているこの場所で、日本という遠く離れた島国に生まれ育った若きデザイナーがファッションショーを開催。中島にとってはもちろん、ミラノにとっても外国人にチャンスを与えるのは挑戦的な試みだった違いない。パリやロンドンといった他の主要都市に比べてミラノで日本人デザイナーの活躍が顕著でないのは、イタリア独特の“家族意識”が強いお国柄だろう。だからこそファッションという方法で文化、人々、過去と現代をリンクさせたATSUSHI NAKASHIMAの今回のショーは感慨深いものがある。

ミックスカルチャーが魅力の中島のデザインの基盤となっているのは、ジャン=ポール・ゴルチエの元、パリで働いた7年間の経験だ。「人生の中で最も大きな出来事。宝くじに当たったような感じでした」と仕事のオファーが舞い込んだ時の感想を語ったが、宝くじに当たるよりも奇跡的なことではないだろうか。

有言実行する行動派のイメージとは対照的に、白のTシャツに黒のショーツといったシンプルな出で立ちで、話し口調も柔らかい。意欲剥き出しのギラギラした雰囲気は一切ないが、真っ直ぐな眼差しと潔い姿勢には、静かに燃えるものづくりへの情熱が伝わってきた。実力、才能、運を兼ね備えた中島に、自身のデザイナーとしての歴史、ミラノでショーを行うことの意義、そして今後の展望について訊いた。


ーー ファッションデザイナーを目指したきっかけを教えてもらえますか?

祖父が画家だったという血筋もあってか、幼少期は絵を描くことに夢中でした。本格的にファッションにのめり込んでいったのは、高校生の頃。家族には「デザイナーなんかなれるはずがない」と反対され、高校卒業後は一般企業に就職し、1年間社会人として働きました。しかし、やっぱりデザイナーになりたいという夢が捨てきれず、会社を辞めて自分の貯金で専門学校へ通うことしたんです。


ーー 専門学生時代から、将来は海外で活躍したいと考えていましたか?

英語がとても苦手だったので、あまり考えていなかったですね。好きなことは徹底的に追究しますが、そうでないことには力を注がない性格でして(笑)。

でも、ある時学校で海外コレクションのショーの映像を初めて観て、“モード”という新しい世界を知り感銘を受けました。それから漠然と、パリコレなど海外でのショーを夢見るようになり「いつかは…」と胸に秘めていました。


ーー そんな夢を抱きながら、専門学校卒業後はどのようなキャリアプランを立てていましたか?

縫製工場に勤めた後、パタンナーとしても経験を積んでから、最終的に自分のブランドを立ち上げようと思っていました。デザイン画を描くだけのデザイナーではなく、ものを作れるデザイナーになりたかったので、このようなプランを立てていたんです。

ただ、勤めた縫製工場での配属先の仕事が劣悪で……。休みもなく、毎日朝方まで働いて、身も心も削られるような日々。過去そのポジションに就いた人は6人連続で退社してしまっていましたが、3年は働くと決めていたので必死で耐えていた最中、渡仏のチャンスが訪れました。2年半程働いた時にオンワードファッション大賞のグランプリを受賞し、その年特別審査員として招かれていたジャン=ポール・ゴルチエ氏に、「自分の元で働かないか」と声を掛けてもらい渡仏を決めました。

ゴルチエ氏にきっかけをもらった時、パリに行けることや彼の元で働けることより、正直縫製工場を辞められることが一番嬉しかったかもしれません。それくらい、本当に辛い2年半でした。


ーー ゴルチエ氏に見初められたのは実力だけでなく、努力と我慢の末に自ら勝ち取った運なのかもしれませんね。渡仏後はどのような生活が待っていたのですか?

英語はもとより、フランス語なんて全く話せなかったので、最初の半年は仕事を確実にこなすことはできませんでした。指示をされても違うものを作ってしまったり、仕事でも生活面でも気苦労が多かったです。ただ縫製工場での辛い経験のおかげで忍耐力と根性はついていたかもしれません(笑)。

最初の一年間はインターンだったので貯金も底をつき、人事担当に社員になれないか希望を出してみました。しかし、ちょうどその時期ゴルチエ社で30人のリストラがあり、社員になることは出来ないと断られました。最後にゴルチエ氏にそのことを伝えると、彼はインターンだった事さえ知らなかったようで、こんな状況にも関わらず社員になれるよう対応してくれました。その後、ディフュージョンラインのヘッドデザイナーという役職を与えてくれて、7年間ゴルチエ氏のアシスタントを務めました。

僕にとってはこの7年間は、今のATSUSHI NAKASHIMAのブランドのベースとなる、重要な経験。それまで日本にいた時には持てなかった視点や考え方を多く学びました。

ーー後編に続く。

《ELIE INOUE》

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