デイズドと上陸したナイロン・ジャパン--1/11【日本モード誌クロニクル第3部:横井由利】

2015.03.16

アメリカ発の『NYLON』は、1998年マービン・スコット・ジャレット、マイク・ノイマン、1990年代初期のスーパーモデルの1人ヘレナ・クリステンセンの3人によって創刊されたモード誌だ。

欧米にはモード関係者に一目置かれそれなりの地位を確立したインディーズ系のモード誌が育つ土壌がある。NYでファッションアートを融合したビジュアルマガジン『ヴィジョネア』や『Vマガジン』を発刊するスティーブン・ガンは自社の運営のみならず、『ハーパーズ バザー米版』のクリエーティブディレクターも兼任し、インディーズの強みをメジャー誌でも発揮している。メジャー誌にはないマニアックでディープな情報の量と質が、インディーズ誌の強みでもあるのだ。

TVドラマ「ゴシップ・ガール」のシーンで女子達が愛読していた『NYLON』の 日版を発刊するカエルム社の代表取締役と『ナイロン・ジャパン』編集長を兼務する戸川貴詞氏に創刊の経緯を訊ねた。すると『ナイロン・ジャパン』より1年早く創刊した『DAZED&CONFUSED 』日本版(『デイズド』)から話す必要があると切り出された。

『デイズド』は、1991年に創刊したロンドン発のモード&カルチャー誌だ。フォトグラファーのランキンとエディターのジェファーソン・ハックの2人によるもので、スレンダーなジェファーソンはコレクション会場では目立った存在で、Style.comで掲載されるフロントローの常連でもある。彼らの雑誌作りに共感してケイト・モスアレキサンダー・マックイーンが参加したことでも有名だ。

大学卒業後出版社に就職したが、起業することを思い立ち戸川氏は先輩の出版社で経営面を学ぶため転職。が、ファッション雑誌を出版するには自分には業界のコネクションも認知度もないわけで、インターナショナルに通用するライセンスマガジンからスタートした方が販売も広告も会社経営もうまくいくに違いないという結論に達した。

思い立つとすぐに体が動くたちなのか、2001年カエルムを設立する前にロンドンへ行き『デイズド』の門を叩いた。「知り合いがいたわけでもないですが、ランキンもジェファーソンも話を熱心に聞いてくれ契約が成立することになりました。『デイズド』を理解するために編集部に毎日出社させてもらい、そのまま3週間ロンドンに滞在しました」と戸川氏。

海外のファッション誌は、それにかかわる新人のフォトグラファーやスタイリスト、ヘア&メイク、モデルにとってプロモーション用で、そこで名が売れると広告の仕事が入り経済的に安定していくという構図を目の当たりにした。駆け出しのフリーランスはページを作る経費以外はノーギャラが常である。雑誌を出版する側も、低コストでクオリティーの高いビジュアルを期待し、ラグジュアリーブランドもそれに協力して高価なドレスを貸し出してくれるのだ。新人でもクリエーティブでクオリティーも高いものを創り出せば「あっ」という間にサクセスする光景を見ながら、戸川氏は日本の発刊プランを練ったという。

『デイズド』が日本の文化に根づくには時間がかかりそうだと睨んだ戸川氏は、ロンドンにいるうちにニューヨークの『NYLON』編集部に電話した。

すると「近々東京に行く予定(ユナイテッド・アローズのジュエル・チェンジズのパーティーに出席のため)があるので、東京で会おう」ということになり、当時の編集長マービンに会うと意気投合し、その1年後に『NYLON』の契約も成立。こうして2002年3月『デイズド』創刊(10年10月号にて休刊)と04年4月『ナイロン・ジャパン』が創刊した。

2/11--ストリートになるナイロン・ジャパンに続く
Yuri Yokoi
  • 『ナイロン・ジャパン』 創刊号(2004年2月28日発売)。宇多田ヒカルが表紙を飾った
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